評価 S:とんでもない時代によくぞ資産維持した点を評価
祖父は私が4才の時に他界しているため直接の記憶はありません。
ただし、昭和12年の彼の直筆の履歴書が残っていたため経歴はよくわかっています。
彼は若い頃に当家に養子として迎えられました。
明治24年(1891年)に生まれ、70年以上彼が生きた時代は二度の大戦があり、世界恐慌や昭和恐慌もあり、激動すぎで資産運用を行える環境ではありませんでした。
その中で彼や家族がとった戦略は、脳みそ資産を鍛えることでした。
大阪高等工業学校電気科を卒業し、東京桂川電力株式会社に電気技師として入社。
しかし数年後に重砲兵聯隊に志願した(させられ)ため退職しています。
その後大阪電燈株式会社に入社し、順調に出世もしたようですが、会社解散後は大阪市の電気技師の役人になりました。
昭和12年には年俸3,450円支給とありますので、かなりの高給取りだったようです。
大阪電燈時代には松下幸之助が部下で、松下に技術指導を行っていたというのが自慢話しと祖母から聞いたことがあります。
戦後の経歴は定かではありませんが、関電と近電工を経て最後は大和電気という会社の顧問をしていたと聞いています。
今風に言えば、彼は高級官僚で天下りで民間会社を渡り歩き技術指導をしていたのだと思います。
そのようなことから自分に自信があり、資産運用には興味や執着はなかったのではないかと思います。
東区紀ノ國町(現在の中央区玉造)の戦後処理にあたっても執念を見せなかったと思います。
続きは次回。